桜色4
それは突然やって来た。
カカシが忍の気配に気付いて立ち上がる。
「どうしたんですか?」
いつものカカシとは違う様子にサクラは尋ねた。
「くっ!マズいぞ。かなりの人数がこちらに一斉に近付いている」
「忍ですか?」
「ああ、かなり多いぞ。サクラ、すぐに屋敷から出るんだ。いいな!」
そう言うと、カカシは一瞬にして姿を消した。
サクラは慌てた様子もなく、ただカカシがいた場所を見つめていた。
「呼び捨て…」
サクラは、本当に嬉しそうに笑った。
しかし、すぐに苦しげに顔を下に向けた。
(くっ、これは1人で何とかなる人数じゃないな)
カカシは先回りして敵が通るであろう場所一帯に地雷式の起爆札を張り巡らせた。
(時間がない上に1人で仕掛けるとなるとかなり雑になるが、人数からして全員が手だれというわけでもないだろう。
恐らく半数以上はチンピラ程度…。そいつらの人数を減らすことくらいは出来るはずだ)
やがて、そこかしこで爆発の音が鳴り響いた。
「さあて、せめて3分の1くらいにはなってくれよ」
カカシは左目を隠す額当てをズラした。
一方、サクラは―――
「サクラ、準備はいいか」
父親が障子越しにサクラに話し掛ける。
「はい」
いつも通りの口調。
何ら変化は見られない。
「せめて、最後にお前の顔が見たかった」
父親はギリ、と顔を歪めた。
彼からサクラの顔は見えない。
どんな顔をしているのだろう。
泣いてはいないだろうか。
最後に、愛しい娘に触れられないのが悲しい。
「それは掟で禁じられています。もう、覚悟は出来ていますので」
父親の心配をよそに、サクラの声は常と変わらず、父親からは窺い知れない表情も多少強張ってはいるが
意思の強さを示す瞳の光は失われていなかった。
いつもと違うといえば、サクラの身に着けている着物だろうか。
全身白の装束を身にまとっている。
それは、死に装束。
サクラの桜色の髪を一際輝かせた。
「お父様、どうか悲しまないで下さい。サクラは死ぬわけではありません。
この国と真に一つとなり、いつまでもお父様たちをお守りいたします」
「すまんっ…」
父親は堪えきれずに涙を流した。
「そろそろ、行って参ります」
サクラは部屋の隠し扉から外へ向かって歩き出した。
サクラの心は自分でも不思議に思うほど、落ち着いていた。
怒りや悲しみは微塵もない。
ただ、カカシだけが心配だった。
彼にはほとんど真実を伝えることなく別れそうだ。
もう二度と、会うことはない。
彼女は、生まれ持った運命に従わなければならない。
その印が髪の色。
花蝶の国には古くから存在する縛りのような言い伝えがある。
『国の危機が訪れると、桜色の髪を持つ御子が現れ、その身を呈して国を救う。』
花蝶の国は、国の7割が花で占められている。
残りの3割のうち2割は住居地で、1割は立ち入り禁止区域となっている聖域である。
そこに花は一輪も咲いていない。
そして動物もいない。
あるのは昔からそこにいる大木の連なる森林だけである。
言い伝えでは、そこには底が見えるほどに澄んだ湖があるという。
その湖にはこの国が出来てからずっと神がいると言われ、そこに身を投じることによって神の一部となり、永遠の生を与えられるという。
サクラが16歳になって最初に訪れる満月の日。
つまり、今日。
サクラはこの国を守る守護神となる。
湖の位置はよく知らない。
誰も見たことはないのだ。
(こっちかな)
サクラは誰かに導かれるように躊躇うことなく森の奥へと進んでいく。
考えることは、己の運命を憎むことでも国の今後でもない。
ただ、カカシだけが、無事であって欲しい。
彼と過ごした1ヵ月間はとても濃い時間だった。
初めて読んだシンデレラや白雪姫は、最後には王子様が迎えに来て幸せな一生を過ごすと書いてあった。
自分にはない幸せで、少し辛かったが、それ以上にこの本を読めて嬉しかった。
カカシが、側にいてくれる。
それだけで幸せだったから。
サクラは立ち止まった。
誰かが倒れている。
しかも、見知った忍のベスト。
(まさか…)
サクラは祈るような気持ちで駆け寄った。
カカシだった。
すぐに脈を確認すると、微かだがあった。
普段は額当てで隠している左目が見えた。
左目を両断するような古傷が痛々しい。
ベストが赤く滲んでいる。怪我をしているようだ。
「カカシさんっ」
サクラはカカシの怪我をしている部分に触れた。
蝶が十数羽カカシの傷を覆う。
「しっかりして」
「うっ…」
カカシが顔を歪めてゆっくり目を開けた。
「サ…クラ…?」
「気が付いたんですね。良かった」
サクラはホッと胸を撫で下ろした。
「しばらくじっとしていて下さい」
蝶は先程より増えていた。
カカシは霞む視界の中に大量の蝶を見て、サクラに助けられていることを知る。
蝶が舞っては散り、舞っては散り、を繰り返す。
それと共に、体の中心にずぅんと乗っている何かが取り除かれていくような気がした。
「君の力はすごいよ。これからはたくさんの人の為にこれを使って欲しい」
カカシはサクラの顔を見上げるが、逆光でよく見えない。
「サクラ?」
言い知れぬ不安がカカシを襲う。
「私には、それは出来ません」
「え?」
「カカシさんに護衛してもらう期間が1ヵ月でしたよね。全ては今日私が死ぬためなの」
「何故…?」
怪我のせいでカカシの声は弱々しい。
「私は神に捧げられる生け贄として生まれました。この森にある湖に身を投げることによって神と一体となり、国を守るのです」
「そんなのおかしいだろっ」
サクラは何も言わずうつむいた。
生まれながらにしてこの日の為に死ぬのが決まっている。
何て残酷なんだろう。
でもどうしてこの子はあんなにも笑っていられたんだ。
「サクラ、俺と一緒に里に行こう」
「え?」
今度はサクラが驚いた。
真剣なカカシの目と視線がぶつかる。
「君の力はもっとたくさんの人の為に使うべきだ。こんな所で死んではいけない」
心から出た言葉だった。
彼女はこんなところで死ぬべき人間じゃない。
だが、カカシには言葉に出来ないもう1つの思いがあった。
この1ヶ月、彼女と一緒に過ごした日々は任務ということを忘れてしまうほど穏やかな日々だった。
いつ襲撃されるか分からないという緊張感はあったものの、サクラと交わす何気ない会話が楽しかった。
サクラを失いたくない。
カカシは初めて人に執着した。
「…ごめんなさい」
カカシの頬に滴が落ちた。
サクラの涙だ。
「カカシさんの里に行ったとしても、万が一この事がこの国に知れたら、お父様や妹が…」
「俺が守るから!」
ハッとサクラはカカシの目を見た。
今まで見たこともないくらいその瞳は真剣だった。
「サクラのことは、俺がずっと守っていく」
サクラはポロポロと涙を流した。
悲しいんじゃない、嬉しくて涙が出た。
シンデレラや白雪姫にも王子様が迎えに来た。
そして、私にもそんな存在がいた。
私は不幸なんかじゃない。
胸を張って言える。
「あなたに、私の夢を託していいですか?」
「夢?」
サクラはカカシの顔半分を隠す布を下にズラした。
初めて見るカカシの顔は予想通り整った顔だった。
サクラはゆっくりカカシの顔に自分の顔を近付ける。
「サク―――」
カカシの言葉は途中で遮られた。
まるで世界全体が止まったようだ。
葉と葉から零れ落ちる日の光も、顔を掠める風も、水面のようにたゆたうサクラの髪も、全部が止まって見えた。
目の前にサクラの顔がある。
閉じていた瞳が開いて――――笑った。
サクラにキスされている。
その事実に気付いたのは惜しくも彼女の唇が離れる時だった。
「サクラ?」
カカシの問いかけにサクラは応えない。
サクラはカカシの手を取ると、腹部の傷の上に置いた。
サクラが触れて触れていないのに、蝶が現れた。
「私の力をあなたに移しました。これであなたはあなた自身も治癒出来る」
「な…!」
サクラはまだ言い募ろうとするカカシを置いて立ち上がると森の置くへと向かって行く。
「どこに行くっ?行くなっ!」
カカシの体は意志通りに動かない。
傷以外の何かが邪魔をしている。
「サクラっ!お前なら分かっているだろう?神なんていやしない。いたとしても生け贄なんて求めるものか!」
「分かっていますよ。けど、私は行かなくてはいけないのです」
「行くな!頼むから」
「…」
「サクラ」
サクラはカカシの方に振り返った。
微笑んでいる。幸せそうに。
「もしかしたら、私はあなたに会う為にこの世に生を受けたのかもしれません」
サクラは森の奥深くへと進んでいく。
カカシがいくら名を呼んでももう二度と振り返らなかった。
カカシは意志とは関係なく眠りへと落ちていく。
目は必死にサクラを追うのに瞼が勝手に降りてくる。
「くそっ…」
カカシは忌々しそうに眉を顰めるが、そのまま意識を手放した。
パシャッ
パシャパシャ
誰かが水浴びでもしているのだろうか。
まるで子守歌のような水音が耳に心地良く響く。
水と戯れているようだ。
カカシは覚醒しつつある頭の中でそれをうっとりと聞き入っていた。
やがて、水音は消えた。
カカシは重たげに瞼を持ち上げた。
木漏れ日が眩しい。
ここはどこだろうか?
未だに覚醒し切れていない頭で現状を理解しようとする。
脳裏を掠めたのは桜色の流れる髪。
「サクラっ!」
勢いよく体を起こし、辺りの気配を窺う。
自分以外の生き物の気配は感じられない。
不思議と体は軽かった。
腹部に触れても傷らしい傷は見当たらない。
服だけが不気味に赤く染まっていた。
それからカカシは必死に辺りを探し回ったが、サクラどころか、サクラの言っていた湖さえも見つからなかった。
カカシは呼吸を整えながらゆっくり現実を飲み込んだ。
サクラは、もういない。
自分に置き土産をして、彼女はどこかにいってしまった。
森から出る途中、足に傷を負ったタヌキに遭遇した。
カカシが近付いてもタヌキは逃げ出さない。
傷口に触れると――――蝶が舞った。
カカシはその事実に何も感じなかった。